昭和52年03月28日 朝の御理解
御理解 第71節
「ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけにゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参ってくることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。」
平穏無事な時に、しっかりと信心の稽古をしておけと。折角ここで力が受けられる、「お徳を受けるというのは、こういう時だろう」と思われるような時に、あわてたり「日ごろの信心はどこへやら」と、言う様な事になってはつまらん。「夜夜中どういうことがないとも限らん。」ということは、例えば突発的なもん、その病人ができたとか、まぁひとつの事件があったとかと言った様な事ではなくて、これはもうどういうことでも、やっぱりそうなんです。
「どういうことがないとも限らん。」ということ。してどういうことでも、それを信心でこなす。信心で頂く。そういう稽古をしておくためには、成程常日頃しっかりと信心の稽古をしておかんとでけません。昨日私はある方の毎日熱心にお母さんに信心ができます。子供たちやら嫁たちが、なかなか信心についてきません。」、昨日ここでお届けがありますのに、「今日、嫁が『今日は、あの私は高塚ん地蔵さんにお参りします。』とこう言う。だから『ああ、そうですか。』
というて、まぁこちらに参ってきました。」とこう言うのです。日ごろだからしっかり、信心がでけておられますから、それを「はいそうですか。」とまぁ受けてこられたわけです。「もう本当に息子が信心してくれると、嫁が信心してくれると」という願いを切実に、まぁ持っておられ、願いもしておられるんですけれども、で本人はそう言う様に「はいそうですか。」で受けられるような、おかげを受けておられるけれども、取次ぎをさせて頂く私の方が悲しゅうなりましたね。
「お母さんが、金光様にご縁があるなら、私しゃぁ高塚ん地蔵さんに参りますよ。」と言われるわけでもなかろうけれども、言わんばかりにです、お母さんの毎日お参りしておる教会には、お参りしようとはせずに、「私しゃあ高塚の地蔵さん。」勿論高塚のお地蔵さんと金光様と「やっぱり同じ信心だ」というふうに、まぁ思うておられるからではありましょうけれども、私は本当に親、姑親として「嫁がどうぞ、金光様のご信心になるように」という願いを持っておればおるほどに「本当に悲しいことだなぁ」と。
これは本人じゃぁないです。私がそう感じたんです。なかなか信心を伝えるとか、本当に、素直に、信心についてこらせるということは「難しいことだなぁ。」とこう思わせてもらう。私しゃぁそう言う様な場合であってもです「いつ夜夜中、どういうことがないとも限らん。」っていうか、そういうことも入ってくるわけでしょうね。そこで例えばなら、皆さんがそう言う様な場合に、例えばこれが○○さんあたりだったら、「ちょいと、あんたそこに座んなさい。
あんたどこに参るっち言いよると。」ち言われても良いところなんです。「高塚ん地蔵さんに、あんたわざわざ遠い所にお金つこうて、参るよりか合楽にお参りする方が良かはかの。」と、合楽の信心をコンコンと説き、又は○○さんのいうならばあれは、信心でも宗教でもないのだ。こんなにつまらんもんとつまるもんという差を、いうならばコンコンと、解き明かされるような人もあろうと思う。けれどもこれはこの時に始まったものじゃぁないですからね。
言うて分かるぐらいならば、もう嫁に来てから何年にもなるし、子供もあるくらいですから、やっぱついて来るでしょうけれども「お母さんの信心に、ついてこない。」というところに、私は悲しさを感じます。だからその時に悲しさを感じたり、そのあんたはなら、その主人であるところの息子に「今日はお参りする。」というて言うとるの。「お参りするなら、お参りしたっちゃよかけれども、あんたどん私がこれだけ、金光様の信心をさせて頂いておるとに。
またしかも改式まで家はしとるとに、私の信心をついてこなきゃぁいけないのに、なんなら、高塚のお地蔵さんの。」とまあ言うても良いところだけれども、そのお母さんは、「あぁそうですか。」と言うて、ここでお届けをされて、それを聞いた私の方が悲しゅうなった、しかしね、それを本当に悲しいと思うならですね、私はそういう時に、自分の日頃の我情を捨てておかなければいけないと思うですね。我情を捨てる稽古を日頃しておかなければならない。
「嫁が信心してくれるとよいけれども、息子が信心するとと、いいけれども」というのは、やはり我情の場合がある。又はそれを本当に例えば、本人は悲しいことともなんとも思う、そげなお届けはありませんでしたけれども、私が思う「しかし○○さん、本当に悲しいことの。」と私が言うたら、「もうほんにそうです。」と言われるだろうと思うです。「日頃子供たちが信心してくれんと。」というのに、しかもそのまぁ信心とも思うてないような信心に、しかも遠方の所に参るという。
もちろんなにか願いことがあって、お参りはするのであろうけれども、同じ参るなら「お母さん、あなたが、参りよんなさるところに、連れて参って下さい。」というなら、もう本当に素晴らしいことだろうけれども、しかしこりゃぁその時、その日だけのことじゃぁない。常日頃がねそのなにかが「お母さんが右に行きなさるとなら、私は左にいく。」といったようなものが、確かに雰囲気の中にあるだろう。そこに日頃、私共が我情を捨てておく。捨てるということ。我情我欲を離れなければ。
私がこりゃぁ私自身、切実にそれを思いました。おかげを受けておるところは、本当に、いくら御礼を申し上げても足りんが、そういう過程もあろうがそういう時には、いよいよ我情を捨てる、いやそのことで「いよいよ私を、もっとより豊かに、丸うして下さろうとする働きだなぁ。」と言う様な、受け方が出来る信心を、日頃頂いておかなければならないと、私は思います。そういう稽古をねしておくということは、だからね平穏無事の時といやぁ、大体平穏無事の方が多いですから。
皆さんこうやって、お参りなっておる。まぁいうならば、「今日も平穏無事でおかげを頂いて。」という方達ばっかりが、多いと思うんですけれども、そういう時にそういう信心をしておかなければならない。どんな場合であってもいつどういう突発的に、どういうことを言われようが起こってこようが、「はぁこれが自分が、もし悲しい思いをするならば、こりゃぁ自分の我情のせいだ。」ととらせてもらい、それがきついことであったならば、「これによって、自分の角を取らせて頂くんだ。」とそく思えれるような信心を、日頃しておかなければならない、ということでございます。
昨日御用日誌に、昨日は幹三郎が、当番だったらしいです。所感のところにこういうことを書いてあります。「じわじわとこみ上げてくる、この喜びはなんだろう。訳の分からぬこの有難さはなんだろう。そしてこの有難さは、明日への原動力にもなりそうだ。有難い心というものは理屈以前のもの。いわば訳の分からぬもの。正体のつかめぬもの。ということが今日改めて分からせてもらいました。」と言う様な事を書いてある。「信心の喜びとか、信心の有難さというものは、もう理屈以前のものだと。
理屈じゃぁないんだと。どこから湧いてくるか分からん、このじわじわと湧いてくる、この有難さはどこから来るのであろう。」と言うわけなんです。しかもこの有難さはね、「明日への原動力にもなりそうだ。」とこう言っております。信心の稽古をさせて頂くと言う事は、いうなら合楽理念を、例えばマスターするといやぁ今のその嫁さんとの、その問題の事であっても「ああそうですか。」と済まされるわけなんです。けれどもそれ以前のところにです親子の中に「お母さんが右なら私は左。」と言った様な者があるのではなかろうか。
そこに言うならば黙って、別に言葉で争いとか言う様な事がないにしてもです、本当に有難い雰囲気というものが、家庭の中にいうなら「ない証拠だ」ということにもなります。有難いもので一切を溶かしていけれるほどしの、有難さというものは、こうしたからじゃぁない。理屈じゃぁない。「合楽理念をマスターしたから」だけでは頂けない。その合楽理念が実際本気で我情を捨て、我欲を捨てるけいこがなされて、合楽理念の行者としての信心。そういう信心から私は、おかげが受けられる。
昨日はそこの駐車場の入口のところに、植木が少し植えてあるのが、「向こうの田んぼの邪魔になる」というので、全部、移植をさせて頂いた。昨日はもう誰も、修行生の方達がおりませんでした。皆それぞれの御用で出ておりましたし、それから御本部にみんな行っておりますし、若い宮崎さんを中心に、青年会の方たちが四、五人御用しておられました。なかに末永先生もそんなわけで、まぁ。
「今日のような手人数のない時にせんでもよかろそうなもん。」と言う様な事だったですけれども、実際にやらせて頂いて、こういう時に合楽理念は、「何をどう教えておるだろうか」と思うた。そこから御用の心がモリモリと起こってきた。不思議なことにね、そのそういう心の状態になると、「もう仕事が、はかいくことに驚いた。」ということを昨日研修の時に話しておりました。確かにそうです。
合楽理念を基にして、その御用がなされる時です、「どうして今日んごたる手人数がない時に、せんでんよかろう。」という時には、ただいうならいやな仕事であっても、合楽理念を基にしただけで心が弾んでくる。しかも仕事がはかいくのに驚いた。確かにそうです。「もう自分が有難い。」という思いで、御用させてもらう時の御用は、もう確かに「神様がやっぱ手伝どうて下さる。」といわにゃぁおられないほどしに、はかいくもんです。そういうけいこが、私しゃね常日頃出来ておかなければならない。
そしてどこから湧いてくるか、どこからこの喜びがくるのか分からない、そういう喜びに触れてしかもあくる日の、これが原動力にも、活動力にもなろうと思われるようなものがです、信心生活者の上にはなからなければいけない。そこにですいつ突発的な、どう言う様な事が起こってきても、それをどっこいと受けたり、有難く受けたり「はぁこれで角を取らせて下さるんだなぁ。これでいよいよ豊かな心を作って下さる働きだなぁ。」と受ける時に、そこにはそういう、私は生き方が出来ておる限り、家庭の中にもそういう、丸い豊かなね、姑と嫁の中に。
「お母さんが右なら私は左。」というものが、言う様な私は雰囲気が、段々消えてなくなって来ると思います。そういうひとつおかげを頂きたい。そういう稽古を常日頃に、ここに「病人があっては、それを捨てて参ってくることはでん。」とか「日傭取りは、そんなに毎日参る事はでけん。」とか言う様な事は、平穏無事な時に「お参りできる時に、参っておけ。」ということですから、けどもお参りできれるという時には、実を言うたら、お参りがでけるという時の方が、ほとんどだと言う事ですよね。
お参りをしようと思ったら、だからこの辺のところを頂き違えんようにせんとね。いわば、今日私が申しますように、「どこからこの喜びが来るのだろうか。」と言った様な喜びにゃ触れられないと思う。やはり精進。しかも神様のお心に叶う、いうならば理念に基づいての生き方。そういうものが出来てくる時に、どんな時でもあわてんで済む、何事にも信心になれれる、おかげが受けられると思うのです。「信心のけいこに来る」。「何を、目当てに稽古しておるのか」と。
ここに、信心させて頂く者の、いうならば「目の粗さ」というものを感じます。「夜夜中、どういうことが起こっても、はぁおかげですよ。」と「おかげだよ。」と、どんなにカッンと、例えば普通でなら来るということでも、「はぁそうですか。」と言えれるような、あのおかげを頂くために「信心のけいこの焦点」というものが、いよいよ合楽理念を基にしての稽古。そして有難い御用の内容というものが、出来てくる時にそれこそ御用がね、面白いように、楽しく進んでいくような体験を頂いたら有難い。
信心の稽古はしておるけれども、ひとたび家に帰ると信心のある者も、ない者も同じような状態に変えってしまう。「有難く頂いて帰れば、船にも車にも積めぬほどの神徳がある。」と言われるのですけれどもね、稽古にきよるようであって、帰りにはみんな、途中で落としてしまうと言った様な事のない信心を合楽理念は、愈々細かに解きます。そこを愈々身につけていかなければならんと思います。
どうぞ。